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ゲッセマネの祈り マタイ26:36〜46

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聖書の神様は多くの場合、「沈黙の神」です。

決しておしゃべりの神様ではありません。

十字架にかけられる前夜 イエス様が血の汗を滴らせて祈っても

神様は何も答えてはくださいませんでした。

しかし イエス様は父である神様の答えを知ることができました。

自分の願ったことが決して神様のみこころではない ということを悟られたのです。

いくら願っても 天の父なる神様は ひとり子であるイエス様に

一歩たりとも譲歩することはありませんでした。

やがて十字架の上で 御子イエス様を私たちの代わりに呪われた時と同じように

毅然としてイエス・キリストの祈りを拒絶されたのです。


神様は 時としてこのように祈りを聞いてくださらず

沈黙を貫くことによってその「答え」とされます。


私たちをより強く より潔められたものとするために訓練されるとき

言葉で訓練されるのではなく、事実と環境を用いて訓練される時があります。

私たちに もし 賢明にそれを悟る心があれば

常に神様の御心をうかがい知ることができます。

私たちが聖書によらない歩み方、考え方をしている時には心に平安や喜びはありません。

きよい神様の愛が感じることができないからです。


「何かをする時に、いちいち神様のみ声を聞かなければならない」

と主張するのは「傲慢」であるといえます。

聖書に登場する信仰の祖アブラハム、ノア、ダビデ、

そしてイエス様でさえ神様のみ声を直接はっきりと聞かれたのは生涯でたった3度だけです。

ノアはたった一度聞いて 山の上に箱舟をつくり

その生涯、ずっと神様の言葉を守り抜きました。


もし あなたが神様のみ声を直接聞きたいたのなら、

命がけで全生涯をかけて服従すれば

あるいは聞くことができるかもしれません。


しかし、本心から神様に従う真のクリスチャンならば

み声はたとえ聞けなくても 聖書のみ言葉に示されたとおりを行えばそれで良いのです。

み声は聞けなくとも 神様の御心がどこにあるかは すぐに理解できるはずです。


キリストは、人としてこの世におられた時

自分を死から救うことができる方に向かって

大きな叫び声と涙とをもって 祈りと願いを捧げられました。

そして その敬虔さのゆえに 聞き入れられました。(ヘブル5:7より)



by NewHopeChurch | 2019-04-19 21:24 | 礼拝メッセージ

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