初代教会のクリスチャン 〜使徒の働き2章43〜47
2020年 08月 01日
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
初代のキリスト者たちは、自分自身の力だけで人生に立ち向かうことはできないことをちゃんと知っていました。彼らは誰かに話す前に いつでも必ず神と話しました。つまり まず一心に祈りました。いつもこの世間に出て行く前に 神様のところへ行ったということです。まず第一に神様と向き合い 自我を明け渡して聖霊に信頼して歩みを始めました。だからこそ 彼らは人生の様々な問題に立ち向かうことができたと言っても良いでしょう。
「もし、あなた方のうちの二人がどんな事でも地上で心を一つにして祈るなら天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、私の名において集まるところには私もその中にいるのです」<マタイ18:19〜20>
私たちが一つになる時、必ず何かが起こります。神のみ霊(たま)が 特に神様を礼拝する人々に 強く働くのです。
また、初代教会のキリスト者たちの教会の特長は「主が救われる人々を 毎日起こしてくださった」ということです。その教会の人々の群れはどんなに生き生きとしていたことでしょうか。救われた人々の証し、主の前に信仰告白する人々の様(さま)を想像するだけでもその素晴らしさが伺えます。
特にここには、「彼らは 毎日人々を救いに導いた」とは記されていません。「主も 毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」<47節>とルカは記しています。
救うのは人間ではなく 主ご自身であることを ルカは記したかったに違いありません。たしかにその通りです。救ってくださるのは主ご自身であってどんなに清廉で高明であっても 多くの経験を積んでいても実にキリスト者らしい風格を備えていたとしても人は主に用いられる「器」にすぎません。
このように救われる人々が毎日起こされたということはそこに 「生きた」キリスト信仰があったかなに他なりません。
イエス・キリストとの「生きた」関係が成立していないところに、どうしてキリストの手となり足となることができたでしょうか。
彼らは自分という器を神様の前に捧げ尽くし生き生きとした神様との信頼関係を結んでいました。そんな初代教会の信徒たちだったからこそキリストの手となり足となって働いた時主は彼らを通して多くの人々を しかも毎日、救ってくださったのです。
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